2007年03月12日(Mon)

もののはじまりは、一(いち)

泥棒のはじまりは、仁木弾正(にっきだんじょう)、...

いやいや

橋のはじまりは、日本橋といきましょう。


えー、江戸は、徳川家の城下町から
江戸幕府ができてからのち、天下の
総城下町となりました。


江戸は、武家の町として誕生しましたが
武士は、なんら生産的な事はしません。

彼らの生活を補佐するために、商人、職人、漁師を招聘し
お城の周りに住まわせました。


これは、家康公だけじゃなく
家康公以前の天下人も、諸国の大名も
同じ事をやる。


そうして、住まわせた町を
城下の町、すなわち下町。

武家が住む町として、山の手
という言葉が生まれました。


今じゃ、浅草、深川、向島(本所)を、下町と呼びますが
城の下という、下町の定義からして、当時は下町とは
呼ばれていなかったんです。

まっ、神田、日本橋は、生粋の下町でしょう。


江戸の城作り、町作りのために
一番最初にやったのが、運河作りと
橋造り。

物資の運搬の主役は、舟だったからですね。


その、物資の集積場所が、日本橋を中心にした
地域です。

その代表的なものは、魚河岸ですね。


家康公は、漢方薬に通じていたと言われていますが
それ以上に、食い道楽じゃなかったんでしょうか。

大好物の「しらうお」を食べたいがために
摂津の国から漁師を呼び寄せ、佃島に住まわせた。


彼ら漁師の、漁の目的は
将軍家に魚を納める事です。

その、余りを、日本橋の袂で売り出したのが
魚河岸の始まりだそうです。


さて、...

将軍家にしろ、各大名にしろ
庶民の為の政治は行いません。

しかし、家康公が戦いの無い世界を望んだ故に
庶民の存在が不可欠な江戸の町に、おいおい発展
して行く様を、これから、書いて参ります。

つたない文章で、また、誤字脱字、てにをは
など、間違いも多いと存じますが

日本橋三丁目に生息する、横丁の隠居の
戯れ言と、お見逃しくださるようお願い申し上げます。



ちなみに、しらうおは、きれいな水で
ないと繁殖しません。

隅田川河口では、明治2年まで
しらうお漁が出来たそうです。

また、昭和22年まで
新橋の土橋がかかる川に
しらうおがいたそうですよ。

では、またっ!