2007年04月11日(Wed)

江戸野菜

江戸野菜が注目されてます。

かつて、江戸市民のお腹に入り
糞尿として出たものを肥料にして(究極のリサイクル)

江戸の野菜は、味もよし、大きさも
立派なものが多かった。


さて、

ここでクイズです。

以下に上げる4つ野菜で、江戸時代には無かった
ものが一つあります。

それは、なんでしょう?


1)練馬大根

2)谷中ショウガ

3)小松菜

4)深谷ネギ












えーーーーっ、お分かりになりましたか??


答えは、深谷ネギ

これは、大正時代に生産が始まったそうです。

江戸のネギは、千住が本場でした。

2007年04月10日(Tue)

小股の切れ上がったいい女



「小股の切れ上がったいい女」とは、...

 諸説ございますね。


うなじがきれいな女性と言う人もいます。

切れ長のすずしい目、なんてもあり。


では

杉浦日向子さんが言う、小股とは?

また、どう切れ上がっているかを、書いてみましょう。


えー、まず「小股」ですが

“小”は、接頭語です。

ですから、
小股とは、股のあたり。

つまり、股の付け根を示します。


「切れ上がる」を、言葉で説明するのは、ちと難儀ですが
 やってみましょうか。

えっーー

江戸のきものは、合わせが浅く
ちょっと風が吹こうもんなら、すそが
めくりあがり

膝上20センチぐらいまであらわになる。


今でも、日本人の女性には、O脚の人が多いですね。

このO脚に加えて、脚を横から見ると

S字型に湾曲している姿の人も見かけます。


こういったO脚S字型の女性が、江戸のきものを着て
歩きますと、

きものの裾が、いい按配にひらめき
風がなくても、太ももが見えてしまう。

すると
つい目線が、その先に行ってしまうのが
男ってもので、...

 「ありゃー、小股の切れ上がったいい女」

  と、つぶやいてしまいます。


まっ、こういう女性に、スラックスは
お似合いじゃないようです。(^_^;


2007年03月19日(Mon)

江戸の水


さて、川柳に

  本郷も かねやすまでは 江戸の内

てーのが、あります。


「かねやす」とは、店名で、今でも本郷三丁目の交差点に
 店を構えていますね。

今は、洋品店ですが
江戸では、乳香散(にゅうこうさん)というハミガキ
を売っていました。

享保(1716〜35)年間、兼康祐悦(かねやすゆうえつ)
と言う口中医(歯医者さん)が、乳香散を作ったそうです。

その良さが、口コミで江戸中に広がり
たいそう繁盛したそうです。

そりゃ、今の代まで続くんだから
大したものです。


江戸で、ハミガキがあったなら
化粧品もあったろう、....??


はい、ございましたよ。


紅や白粉(おしろい)は、下りものと言って
京都や大阪から江戸に下ってきました。

「雲井香(くもいこう)」という香水も下りもので
 江戸の女性に大人気でしたねー。


ひとつ江戸原産の化粧水がございまして

名前を「江戸の水」って言います。


これを、作って売ったのが

あの、有名な“式亭三馬”です。

  式亭三馬(1776〜1822)
  浅草生まれの戯作者(げさくしゃ=小説家)。
  代表作に、「浮世風呂」「浮世床」がある。

式亭三馬さんは

咳どめ薬の「仙方延寿(せんぽうえんじゅたん)」
の関東売弘所(うりひろめじょ=地域代理店)をやっており

自前で、「江戸の水」を売り出したんですな。

しかも、それを自作のなかで宣伝するから
えらく売れた。


同じく戯作者で浮世絵画家の
“山東京伝(さんとうきょうでん)”(1761〜1816)
は、「読書丸」という薬を売ってましたねー。


また、「南総里見八犬伝」の作者
“曲亭(滝沢)馬琴”(1767〜1848)も

「奇応丸(きおうがん)」や
「神女湯(しんにょとう)」を
 副業として、売っていたそうな。


どちらさんも
本業顔負けで、薬が売れたそうです。


私も、ここいらで、ひとつ本でも
書いて、頭の良くなる薬とかでも
宣伝しますか?

2007年03月17日(Sat)

女大学

江戸で、山の神、カカア大明神と
恐れ、崇められた、江戸のご婦人たちについて
語りましょう。


貝原益軒が書いたとされる「女大学」は、

江戸中期〜明治期に普及した女子教訓書で、
結婚後の嫁としての心構えをのべています。


主従関係における主君に夫をなぞらえ、

  夫につつしんでつかえること、

  すべては舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)に聞き、

その教えにしたがうことなど、封建道徳が強調されているんですね。


こんな例があります、...


  確かに、勝海舟のオヤジさんの小吉夫婦は、
  えらく姑にいじめられたそうな。


  また、勝海舟自身、世に認められるにつれて
  何人もの妾を囲っていたが、

  それに対して、勝婦人のおたみさんはさぞ耐えたんでしょう。


  と思いきや、

  彼女は晩年、死んだら、

  (数え41歳で死んだ)長男の小鹿(ころく)の墓に入れておくれと、
  家人に頼んだらしいから、

  よほど腹に据えかねていたに違いない。


こうなると、「女大学」の教えも怪しくなる。


都々逸の一節に、

  九尺二間に過ぎたるものは、紅のついたる火吹竹

と、粋な文句があります。


九尺二間とは裏長屋の一軒分で、

そこに口紅をつけた唇で火吹竹(ひふきだけ)を吹いて火をおこしてくれ
る女房が来てくれるなんて、身分不相応なものである。

だから、いて下さるだけでも有難いのだから、夫はひたすら妻の機嫌をと
りなさいと言うことです。


武家はともかく、町人階級では、女大学の逆を教えられる。


ここで、「世事見聞録」と言う本に出ている、町人の夫婦関係についての
一部を紹介します。


  今、軽き裏店(うらだな)のもの、その日稼ぎのものどもの体(てい)
  を見るに、親は辛(つら)き渡世を送るに、

  娘は化粧し、よき着物を着て遊芸または男狂いをなし、

  また夫は未明より草履(ぞうり)、わらじにて棒手振り(ぼうてふり)
  などの家業に出るに、

  妻は夫の留守を幸いに、近所合壁(がっぺき)の女房同士寄り集まり
  おのれが夫を不甲斐性ものに申しなし、

   (中略)

  また紋かるた、めくりなどという小ばくちをいたし、

  あるいは若き男を相手に酒をたべ、

  あるいは芝居見物、そのほか遊山物まいりなどに同道いたし、

  雑司ヶ谷・堀之内・目黒・亀戸・王子・深川・隅田川・梅若などへ参り、

  (中略)

  また晩に及んで、夫の帰りし時、終日の労も厭(いと)いもやらず、

  かえって水を汲ませ、煮炊きをいたさせ、

  夫をたぶらかし、空(す)かして使うを手柄とし、

  女房は主人のごとく、夫は下人のごとし。


まあ、話半分としても
かなり男が遠慮していた様子がうかがえます。


それは、なんと言っても、女性の数が極端に少ない江戸だったから、
女性が威張っていられたんですよ。


しかし、私の周り、いや私自身にも身につまされる、部分もあるや?

いやいや、そんな事、おくびにでもだすなど、恐れ多い話です。


まったく、今も昔も身分の違いなく
カカアに頭が上がらない亭主は、少なくはないでしょう。

2007年03月16日(Fri)

品川心中

昨日は、落語ネタで話を始めましたので
今日も、これで参りましょう。


えー、品川心中でござぁーい。


  「なんでーぇ、なんでーぇ、品川と日本橋じゃぁ
   えれーぇ、遠いじゃねーか」


と、おっしゃるかも知れませんが

この話は、我が町日本橋三丁目に
縁もゆかりも、ございます。



JR品川駅の高輪口を出て、第一京浜の広い通りを隔てて、

真っ正面をご覧いただくと、
ビルの狭間に、えらく窮屈に建ってる神社があります。


高山神社(高山稲荷)です。


いま、安政四年(1857)の地図を見ていますが、
神社の前の通り(現、第一京浜)から先は海です。

京浜急行、JR線は、海だったところに線路がございます。


線路にそって、しばらく行くと、

京浜急行とJR線をまたぐようにかかっているのが八ツ山橋で、

それから先が、品川宿。


東海道で一番目の宿場ですが、

むしろ遊郭として、明治維新まで栄えたのでございます。


八ツ山橋を渡ると、下り坂になっており、
その坂のとっかかりに

「これより東海道」と棒杭がたっていたそうな。


坂を下りきった、ちょうど京浜急行の北品川駅あたりから、
青物横丁までの間に、引手茶屋と旅籠がびっしりと並ぶ。


幕末の弘化(1844〜48)ごろ、南北品川の娼妓499人、
娼家95軒を数えたと言いまして、

北の吉原の向こうをはった様な威勢でございました。


遊里、遊郭のことを江戸から見た方角で(隠語として)呼んだので、

吉原を北国と呼び、洲崎(深川)を辰巳(南東)ですから、

品川は南となります。

  こんな言葉は、どこの学校の歴史の授業でも
  教えてくれませんな。



「お江戸日本橋七つ立ち」と申します。

「七つ」とは、夜明け、つまり明け六つの2時間ほど前ですから、
 朝の4時頃になります。


その七つに、日本橋を出発すると、
ちょうど、空が白けるころ品川に着きます。


日本橋から品川まで、歩いて2時間になります。

  今じゃ、車の渋滞で、同じく2時間かかります。(汗)


遊里としては、江戸の中心から近くはないのに、
ずいぶん通う人がいたそうです。

吉原と違った、気安い風情が人気でございました。


品川宿も、目黒川を渡ると、南品川と申しまして、
庶民的なぐっとお安い店が並んでおりました。


その一つ「白木屋」が、落語「品川心中」の舞台でございます。


白木屋のナンバーワン花魁(おいらん)が、お染と申しますが、
もうベテランでございまして、寄る年波に勝てず、


ご贔屓の客も一人減り、二人減り、
生き恥晒すなら、いっそ誰かと心中しようと思い立ったわけでございます。


ベテランつまり、年増ですが、当時の年増は、せいぜい二十歳すぎ、
今じゃー、ちゃきちゃきでございますから、

ああ、もったいないお話です。



そのお染にそそのかされて、主人公金蔵が、心中を図りますが、
白木屋の裏の桟橋から、自分だけ先に飛び込まされて、おぼれてしまう。


ところが、品川の海は遠浅で、

膝ッ小僧までしかないところでおぼれているのに気がつき、

はい上がって、ずぶぬれの身を引きずり、

手前の親分をたよって、野良犬に追われながら行く。


親分の家にたどり着いてのドタバタが、クライマックスとなります。



さて、親分は、また、金蔵はどこに住んでいたのでしょうか?


話の中で、金蔵は、「中橋から通って来る貸本屋の金さん」とある。

中橋とは、中橋広小路と呼ばれた場所。

ちょうど中央通りと八重洲通りの交差点あたりでしょうか。

   当時の貸本屋は、

   本をいっぱい入れた大きな風呂敷を担いで
   路地の一軒一軒回って、

   新本を貸し出したり、貸した本を回収した。


すると、

金蔵は
通り町(我が町日本橋三丁目)あたりの長屋に
住んでいたかもしれない。

  縁も、ゆかりもござんしょっ!!



品川宿は、明治五年(1872)の鉄道開通後、無用の長物化し、
すっかり寂れてしまったのでございます。


しかし、つい2〜3日前に、品川に行って驚きましたー。

品川も、まぁ、ずいぶんと変わりました。


京急デパートの一階におしゃれなレストランができて、
高輪レディーと思わしき、品の良いご婦人達が集い。


駅裏には、にょきにょきと高層ビルが建ち並び、
東海道新幹線も品川に停車しておりますね。


もし、
この品川の変貌ぶりを、金蔵やお染さんが見て、


さて、

    その心中は????


品川心中でございました。

2007年03月15日(Thu)

お天道様と米の飯



落語の「唐茄子屋問答」に出てくる若旦那は
吉原通いが高じて勘当されますが

そん時の捨てぜりふに

「お天道さまと、米の飯はついてまわらぁー」

と、啖呵をきって家をあとにする。


話の筋として、

付いて廻ったのは、お天道さまだけだったようです。


ところが、どっこい
江戸の町じゃ、米の飯も

なきゃーないで、簡単に手に入る。

と言っても、ものもらいをするわけじゃない。



ある日、ある時、ある長屋で

カカアが

「ねー、おまえさん、明日のお米がありゃーしないよー」

と嘆く。


そばに寝っ転がっていた、亭主が
むくっと起きあがって、表に出た。


「米つこうか、薪わろうか、風呂焚こうか」

と、言いながら町内を歩けば、どこからか
必ず、声がかかったそうな。

これで、米代を稼ぎ、翌朝のご飯に間に合わせる。


川柳にこういうのがあります


 椀(わん)と箸を 持って来やれと 壁をぶち


壁と言っても、板張りでしょうが

どんどんと、叩いて、空きっ腹をかかえて
ごろ寝しているおとなりさんに声がかかる。


まっ、その日暮らしと言われてもしょうがないが

こう、のんびりした生活を、世知辛い世に生きる
身としては、やってみたいものです。



お地蔵様のお供え物は、行き倒れそうな
旅人のためにあったと言われています。

旅の途中、路銀を使い果たしても
お地蔵様の前に行けば、空腹を満たせた。


ところで、お稲荷様のお供えは
勝手に取ってはいけないらしい。

いただく際は、お返しの約束をして
しかも、ちゃんと約束をはたさなきゃならない。

現世ご利益の神様である、お稲荷様だからだそうだ。


写真は、先月(07年02月17日)初午のお祝いをした
日本橋三丁目三番地にある、於満稲荷さま。

お稲荷さまの由来は、こちらです。

2007年03月14日(Wed)

秤座(はかりざ)



ものを量を量るのは、升。

重さは、秤(はかり)。

長さは、物差し。


江戸幕府は、升と秤(分銅を含む)を
座をもうけて統制しました。


そのうち、秤は特に厳しく
5〜10年起きに、秤改めが行われたそうです。


まぁ
ごまかす人がいるから、取り締まったんでしょうか。


「油を売る」の言葉は、

 そうやって厳しく監視しても
 油屋は、ごまかしたので、儲かったと言う
 話から来ていると聞いた事がありますね。


ところで、長さを測る物差しには
幕府は、とんと無頓着で、座はもうけませんでした。

私は、その理由はわかりません。


だからか、
一尺を測るのに、色んな物差しがありますねー。


昔、おふくろなんざ、お裁縫に使っていたのが鯨尺。

大工さんは、曲尺(かねじゃく)を使った。

菊の大きさは、菊尺で測る。


同じ一尺と言っても、それぞれ違います。


さて、日本橋三丁目7番地に、秤座あとの
記念碑が建っていますが、ご存じでしょうか。

ちょうどDICビルの裏で、駐車場の出口の上あたり。


この場所に、秤座があり、守随家(しゅずいけ)が
支配していておりました。


ダイエットで測る体重計の様に
少しでも軽めに測ろうなんて了見は通じなかった。(笑)

2007年03月13日(Tue)

家康公のお雑煮

お正月もずいぶん前に過ぎて
桜の話題がでてくる季節にお雑煮の話題は
ちと、野暮ですな。


でも、昨日、グルメな家康公と言う話を
ちょいとフォローさせてもらいます。


なんでも、家康公は、食中毒で亡くなったとか、...

これは、なんか、お釈迦様に似ていなくもない。


鯉の天ぷらを食べたそうですが
今風の、衣で揚げた、天ぷらじゃないでしょう。

鯉のすり身を練って、薩摩揚げみたいなものだったか。

これに関して、くわしい文献は無いようです。


しかし、江戸前の天ぷらの紀元は、分かっているようですよ。


上方では、魚のすり身を練って油に揚げたのを
てんぷらと呼んでましたね。


それが、衣を付けて、油でさっと揚げるのを考案した人がいます。


上方から下ってきた利助という板前さんがその人。

海老や魚の切り身を櫛に刺して、衣を付けて揚げます。

この利助さんの看板を、考えたのが
戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)。


山東京伝は、利助さんのお店(きっと屋台)
の看板に、天麩羅の字をあてて書きました。

つまり、

からっと揚げるは、天に通じます。

麩(ふ)の元になる小麦粉を使う。

羅は、薄い衣ですから、...

小麦粉の薄い衣をつけて、油で揚げるさまを
字であらわしたわけす。

と言っても、これが事実かどうか、さだかじゃないそうです。

 参考文献:「お江戸風流散歩道」杉浦日向子


おっと、なんか、お題からえらく道がそれました。

お雑煮の話ですよね。



東京で、一般的なお雑煮は

すまし汁に、鶏肉、三つ葉でもあしらえ
焼いた角餅が入っているものですよね。


これは、家康公が、貧乏で、つらい時代を
思い起こさせるために、

お正月は
質素なものを食べようと、始めたらしいです。


まっ、私のように、

カレーライスがごちそうだった時代に
幼年、少年期を過ごした人には、理解できるでしょう。

年中、お腹をすかせていましたっけ。

2007年03月12日(Mon)

もののはじまりは、一(いち)

泥棒のはじまりは、仁木弾正(にっきだんじょう)、...

いやいや

橋のはじまりは、日本橋といきましょう。


えー、江戸は、徳川家の城下町から
江戸幕府ができてからのち、天下の
総城下町となりました。


江戸は、武家の町として誕生しましたが
武士は、なんら生産的な事はしません。

彼らの生活を補佐するために、商人、職人、漁師を招聘し
お城の周りに住まわせました。


これは、家康公だけじゃなく
家康公以前の天下人も、諸国の大名も
同じ事をやる。


そうして、住まわせた町を
城下の町、すなわち下町。

武家が住む町として、山の手
という言葉が生まれました。


今じゃ、浅草、深川、向島(本所)を、下町と呼びますが
城の下という、下町の定義からして、当時は下町とは
呼ばれていなかったんです。

まっ、神田、日本橋は、生粋の下町でしょう。


江戸の城作り、町作りのために
一番最初にやったのが、運河作りと
橋造り。

物資の運搬の主役は、舟だったからですね。


その、物資の集積場所が、日本橋を中心にした
地域です。

その代表的なものは、魚河岸ですね。


家康公は、漢方薬に通じていたと言われていますが
それ以上に、食い道楽じゃなかったんでしょうか。

大好物の「しらうお」を食べたいがために
摂津の国から漁師を呼び寄せ、佃島に住まわせた。


彼ら漁師の、漁の目的は
将軍家に魚を納める事です。

その、余りを、日本橋の袂で売り出したのが
魚河岸の始まりだそうです。


さて、...

将軍家にしろ、各大名にしろ
庶民の為の政治は行いません。

しかし、家康公が戦いの無い世界を望んだ故に
庶民の存在が不可欠な江戸の町に、おいおい発展
して行く様を、これから、書いて参ります。

つたない文章で、また、誤字脱字、てにをは
など、間違いも多いと存じますが

日本橋三丁目に生息する、横丁の隠居の
戯れ言と、お見逃しくださるようお願い申し上げます。



ちなみに、しらうおは、きれいな水で
ないと繁殖しません。

隅田川河口では、明治2年まで
しらうお漁が出来たそうです。

また、昭和22年まで
新橋の土橋がかかる川に
しらうおがいたそうですよ。

では、またっ!